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河野氏(こうのし / かわのし)は、守護大名、戦国大名となった伊予国(愛媛県)における有力豪族で、越智氏の流れを汲むという。
室町時代以降は代々湯築城を居城としてきた。一族の来歴を記した文書「予章記」はその虚実入り交じった不思議な内容(鉄人伝説など)で有名である。 他に2系統が存在する。 三好義長を遠祖とする、芥川長明の子、芥川季範が河野氏を称する。 桓武平氏 良文流 河越氏の流れを汲む河越重家が子孫が河野氏を称する。 概要 河野氏は河野郷(現在の松山市北条付近)を出自とする。当初は国衙の役人として活動していたと考えられているが、源平合戦で源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけた。その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり内乱を繰り返すこととなった。その結果勢力を削ぐこととなり、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる。河野宗家は、代々湯築城を拠点としていたが、河野水軍の本拠地は松山市三津、港山の一帯であった。この地理的な距離が宗家と分家(水軍衆)との亀裂を生んでいたとも思われる。なお河野氏の菩提寺は旧北条市の善応寺である。湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城を本丸として支城に恵良山城、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有していた。 一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。これは、道前平野での稲作による豊富な食料確保が可能であったからであり、島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな相違点でもある。有名な村上水軍は、形式的には河野氏の配下であるが、独自での活動も活発であり必ずしも従属関係にあったわけではない。伊予の水軍は大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであった。 平安・鎌倉時代 平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ(河野の後築地・"うしろついじ"として有名である)、河野氏の最盛期を築き上げた。 南北朝・室町時代 南北朝時代には、四国へ進出し伊予へ侵攻した細川氏と争う。河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にしたが、河野通朝は細川頼春の侵攻を受け世田山城で討ち死にした。子の通尭は九州に逃れ、南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。 室町時代には度重なる細川氏の侵攻や予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされた。河野通久の時代に、河野通之の子通元の予州家との間に家督相続争いが起こった。この争いはその後も続き、管領職が代わる事に幕府の対応が変わるなど情勢が混迷を極めた。本家河野教通と予州家の河野通春の争いは瀬戸内を挟んだ細川氏、大内氏を巻き込んだものとなったが、応仁の乱のさなか、本家の教通が伊予守護職を確保し、通春没後に予州家は没落した。 戦国時代・安土桃山時代 戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力部将来島通康を巻き込む形で子の河野晴通と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮は叶わなかった。 国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や1581年の来島通総の離反など苦難は続いた。1585年、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして1587年、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。 河野氏遺臣の再興のための戦い 1600年には関ヶ原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢(村上掃部頭元吉(村上武吉の長子)軍団)と、四国に残留した平岡勢が協同して、慶長5年8月28日に加藤嘉明の居城正木城に軍勢およそ二千余騎で攻め寄せるが、守将佃十成の計略にはまり、上陸地点である三津で夜襲を受け、完全に撃破されてしまった。これを「刈屋口の戦い」または「竹原崩れ」という。この後も荏原城などで残党が篭城するが、関ヶ原の戦いはすでに東軍勝利で終わったため、完全に駆逐されていった。 河野氏主要名簿 系図 ┃ 通信 ┣━━━┓ 通久 別府通広 ┃ ┃ 通継 一遍 ┃ 通有 ┃ 通盛 ┃ 通朝 ┃ 通尭 ┣━━━┓ 通義 通之 ┃ ┃ 通久 通元 ┏━━━┫ ┃ 通生 教通 通春 ┃ ┃ ┃ 明生 通宣 通篤 ┃ ┃ ┃ 通吉 通直 通存 ┃ ‖ ┣━━━┓ 通直 通宣 晴通 通宣 ‖ 通直 晴通、通宣(左京大夫)については通直(弾正正弼)の実子と言う説有 通直(伊予守)のについては来島氏からの養子とする説もある。 庶家 河野氏主要家臣団(戦国期) 河野諸氏末裔 秋山好古 秋山真之 正岡子規 馬越恭平 河野淳吾(Jリーガー) 河野直人(Jリーガー) 大石尚子(衆議院議員) 参考文献 川岡 勉・西尾和美『伊予河野氏と中世瀬戸内世界 戦国時代の西国守護』(愛媛新聞社、2004年) ISBN 4860870255 川岡 勉『中世の地域権力と西国社会』(清文堂、2006年) ISBN 479240603X 川岡 勉『河野氏の歴史と道後湯築城』(青葉図書、平成4年)ISBN 4-900024-07-4 こうのし こうのし * こうのし こうのし ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. 戦国武将一覧?■石川高信■小野寺輝道 ■戸沢盛安 ■葛西晴信 ■大崎義隆 ■斯波詮高 ■伊達晴宗 ■伊達輝宗 ■伊達成実 ■片倉景綱 ■田村清顕 ■大宝寺義氏 ■相馬盛胤 ■岩城親隆 ■佐藤好信 ■二階堂盛義 ■金上盛備 ■佐竹義宣 ■江戸忠通 ■小田氏治 ■宇都宮国綱 ■宇都宮広綱 ■結城晴朝 ■水谷正村 ■大関高増 ■大田原綱清 ■千葉胤富 ■里見義堯 ■里見義頼 ■上泉信綱 ■由良成繁 ■北条早雲 ■北条氏綱 ■北条氏政 ■北条幻庵 ■北条氏秀 ■北条綱成 ■石巻康保 ■粟屋元隆 ■宇佐美定満 ■斎藤朝信 ■柿崎景家 ■直江景綱 ■直江兼続 ■新発田重家 ■椎名長常 ■畠山義綱 ■遊佐続光 ■長連龍 ■温井景隆 PR |
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宗像氏(むなかたし)とは、筑前国の古族である。
出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔鳴尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。宗像氏は、正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。914年までは、胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。戦国時代に宗像氏貞をもって大宮司家が断絶した。また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落を意味する。 歴史 古代は、海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。 仲哀天皇の頃、神功皇后が三韓征伐の直前に来宗した際に、宗像氏が宗像大神に神助を賜う。 雄略天皇が新羅に親征しようとしたが、宗像三女神のお告げにより中止する。 645年、大化の改新によって、国郡制が敷かれ、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任し、神郡の行政を司った。また、遠賀郡などの郡司も兼ねる。 654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。 天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。 690年(持統4年)、高市皇子が太政大臣になる。 767年、宗像大領で朝臣の宗像深津(宗形深津)の夫人に竹生王という皇族が降家した。 788年、宗像氏の中から潔清廉貞での祭事者を選んで神主とし、任期を6年と定めた。 800年、宗像大領が宗像神主を兼任することが禁止された。 914年、宇多天皇の御子源清氏に宗像の姓を賜り、宗像の地に配された。この頃から、宗像氏が大宰府の高官に任命されるようになった。 979年(天元2年)、太政官の命により、大宮司職が設けられる。 宗像氏は、自分の荘園を守る為に、京都の八条院と領主・本家の関係になる。 平安時代末期、大宰帥に宗像氏の名が見られる。 1185年、宗像氏実が、博多の貿易商・王氏の娘と、宗像氏忠は北宋商人・張氏の娘と2代に渡って中国人と縁組する。 1281年、弘安の役が起こる。宗像長氏は元(蒙古)の侵略から防戦し、鎌倉幕府から肥前国神埼郡神埼荘を賜る。 1330年、倭寇を指揮する。 1334年、宗像氏が帆柱山城を攻撃する。 1335年、北条時直の遺児が越後左近将監と謀り、佐加利山城で蜂起する。宗像氏範が鎮圧のために吉田頼景らと佐加利山城を攻撃する。 1336年、宗像氏範が入宗した足利尊氏を助け、多々良浜の戦いなどで奮戦する。その結果、楠橋荘(北九州市八幡西区)を与えられる。 1344年、壱岐の石田郷の地頭を、後に壱岐の守護を兼任した。 1375年、宗像氏経が、足利義満の命で菊池氏の領地である肥後国を攻めて、八代城を包囲する。その留守に宗像を攻めた少弐忠資を降伏させた。 関連項目 許斐氏 宗像大宮司の一覧 宗像大社神主の一覧 ! むなかたし ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. 戦国武将一覧?■蒲生氏郷■前田利長 ■池田恒興 ■堀秀政 ■大友宗麟 ■鈴木重意 ■島津義久 ■十河存保 ■仙石秀久 ■真田昌幸 ■鈴木重則 ■猪俣邦憲 ■細川忠興 ■古田織部 ■浅野長政 ■前田玄以 ■長束正家 ■増田長盛 ■福島正則 ■加藤清正 ■脇坂安治 ■平野長泰 ■糟屋武則 ■片桐且元 ■石田三成 ■島津貴久 ■島津忠良 ■本多正信 ■大久保長安 ■奥平貞能 ■本多忠勝 ■服部半蔵 ■板部岡江雪斎 ■大久保忠世 ■鳥居元忠 ■真田幸村 ■大谷吉継 ■後藤基次 ■毛利勝永 ■大野治長 ■明石全登 ■豊臣秀頼 ■筒井順慶 ■筒井順昭 ■最上義光 ■最上義守 ■長宗我部国親 ■長宗我部信親 ■九鬼嘉隆 ■村上武吉 |
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望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。
出自 滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。 概要 鎌倉時代 望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月氏(もちづきうじ)とは、信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。 出自 滋野氏の流れを汲み、滋野為道(為通)の子・滋野則重(則広)、あるいは則広の孫・滋野広重に始まるとさる。信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏の中で、信濃十六牧の筆頭「望月の牧」を継承した一族と考えられる。滋野氏を出自とする諸族の中でも、海野氏、禰津氏と並び、滋野三家と呼ばれる。 概要 鎌倉時代 望月氏の全盛期は、治承4年(1180年)の木曽義仲挙兵に子の望月重隆とともに従軍した望月国親の時代と考えられ、当時の望月氏は佐久郡から隣接する小県郡にも勢力を伸ばしていたとされる。義仲が越後の平家方を迎撃した寿永元年(1182年)9月の横田河原の戦いでは、木曾衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)と共に佐久衆が中核となったとする記録があり、この佐久衆の中心が古来より日本一の牧とも言われる「望月の牧」で育んだ強力な騎馬軍団を擁する望月氏であったと想定されている。また、義仲の四天王といわれた根井光親も望月氏傍流である。 義仲の没落後は鎌倉幕府の御家人となり、望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。さらに建保元年(1213年)の和田合戦に際しても和田軍と戦い、重隆の孫・望月盛重は和田義氏の子・次郎太郎義光を討ち、信濃国和田を恩賞として賜っている。 室町時代 鎌倉滅亡後の中先代の乱では、望月重信が諏訪氏や海野氏・根津氏と共に北条高時の遺児北条時行を擁して挙兵、足利側の信濃守護小笠原貞宗の攻撃を受け本拠地の望月城を喪うが、間もなく同城を回復し勢力を維持した。続く南北朝の争いでは一族の多くが南朝に与して戦い、後醍醐天皇の皇子で「信濃宮」と呼ばれた宗良親王を30年に渡って庇護した伊那郡の豪族香坂高宗も、望月氏の一族とされる。 戦国時代 戦国期に入り、望月氏も望月城(現:佐久市 旧:北佐久郡望月町)を拠点に活動をするが、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退化し、天文12年(1543年)9月に当主・望月昌頼は武田に攻められ落ち延びた。一族の望月信雅は実弟の望月新六と共に武田に抵抗するが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆の仲介を得て武田氏に服従し、望月氏を継ぐことになる(信雅の名乗りは、臣従後に晴信の一字「信」を与えられたことによる)。更に望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟・典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏を武田一門に組み込んでいった。 信雅引退(印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし、その信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後、しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎が当主に復帰する異例の状態となる。 天目山の戦いで武田家が織田家に敗れた際、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、望月権兵衛など難を免れた者達は、現在の静岡市北西部から山梨県南部町や身延町、早川町あたりの県境の山間に身を隠し移り住んだ。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。 武田氏滅亡後、徳川家康配下の依田信蕃に従い徳川氏の傘下に入ったとされる。 甲賀望月氏(近江国) 望月氏が支配した「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行うことになっていた。その繋がりから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり)が恩賞として近江国甲賀郡を賜っている。 戦国時代にはその末裔・望月出雲守が望月城(現:甲賀市 旧:甲賀郡甲南町)を築城するなどの記録が残され、信濃望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展していった。また一族の女忍者望月千代女(もちづきちよめ)が、信濃の望月氏当主・望月盛時に嫁入りし、武田信玄の手下として活躍するなど、交流は長きにわたり続いたと考えられる。 甲賀望月氏は、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。 * * ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. 戦国武将一覧?■和田惟政■蠣崎季繁 ■蠣崎季廣 ■蠣崎義廣 ■蠣崎氏 ■神戸具盛 ■後藤賢豊 ■遠藤直経 ■赤尾清綱 ■海北綱親 ■磯野員昌 ■藤堂高虎 ■不破光治 ■上杉定実 ■上杉憲政 ■北条氏康 ■佐野昌綱 ■長尾為景 ■伊達稙宗 ■伊達実元 ■黒田秀忠 ■長尾政景 ■村上義清 ■高梨政頼 ■北条高広 ■大舘晴光 ■神保長職 ■椎名康胤 ■長野業正 ■小山秀綱 ■那須資胤 ■佐竹義重 ■太田資正 ■三田綱秀 ■成田長泰 ■武田信繁 ■蘆名盛氏 ■本庄繁長 ■大宝寺義増 ■本願寺顕如 ■伊達政宗 ■大内義隆 ■毛利隆元 ■小早川隆景 ■赤松則房 ■黒田孝高 ■山名豊国 ■吉川経家 ■吉川元春 ■清水宗治 |
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江馬氏(えまし)は、桓武平氏の一族。平経盛の遺児輝経が北条氏に仕えたのに始まるという。
概略 戦国時代に、江馬時経が登場し江馬氏は戦国大名として名乗りを上げる。時経は飛騨の北部に勢力を築き、国司姉小路家や三木氏(のち姉小路氏)とたびたび争った。時経の子の江馬時盛の代においては、飛騨は武田信玄の領地信濃国や、上杉謙信の領地越後国と接していて、時盛は武田氏に臣従する道を選び姉小路良頼との抗争を有利に進めた。だが、時盛が子の江馬輝盛と対立し暗殺されたのちは江馬氏は上杉氏に臣従するという道を選んだ。その後は織田氏の力を背景にした姉小路自綱の力が強大化し、江馬氏は衰退していく。1582年に本能寺の変が起きると、織田氏寄りだった姉小路氏と争ったものの、八日町の戦いに負け、輝盛は戦死し、戦国大名江馬氏は、事実上滅亡した。輝盛の後継とみられる江馬時政は金森氏を頼ったものの、のちに反乱を起こし殺害され、江馬氏は滅亡した。 系図 江馬時経 ┣━━━━━━┓ 時盛 麻生野直盛 ┣━━┓ ┃ 輝盛 信盛 麻生野慶盛 ┃ ┃ 時政 麻生野家頼 えまし ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. 戦国武将一覧?■今川貞世■佐久間信栄 ■佐久間信盛 ■佐久間盛重 ■佐竹氏 ■佐々成政 ■斎藤義龍 ■斎藤氏 ■斎藤道三 ■斎藤龍興 ■細川氏 ■細川政元 ■細川藤孝 ■坂井政尚 ■雑賀孫一 ■三好義継 ■三好政康 ■三好長慶 ■三好長逸 ■山中鹿之介 ■斯波義銀 ■斯波義統 ■斯波氏 ■氏家直元 ■柴田勝家 ■若狭武田氏 ■秋山信友 ■秋田氏 ■渋川氏 ■小笠原氏 ■小笠原信嶺 ■松永久秀 ■松平信康 ■上杉景虎 ■上杉景勝 ■上杉謙信 ■上杉重房 ■上杉清子 ■上杉朝定 ■上杉頼重 ■織田信賢 ■織田信光 ■織田信孝 ■織田信行 ■織田信秀 ■織田信清 ■織田信忠 ■織田信長 ■織田信友 ■織田信雄 |
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浦上氏(うらがみし 「うらかみ」と言う説もある)は、武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされる。紀長谷雄または紀貫之の子孫であり、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が苗字の地である。武家としては赤松氏とともに発展し、後に下克上を行い戦国大名としては、播磨・備前・美作に勢力を伸張した。
なお江戸時代に、堀田家は浦上氏と同族とする仮冒系図を作成したが、これは室町時代の名門・浦上氏の威光を借りたものと類推され、堀田家とは別系統と考えるべきである。 発展 鎌倉時代末期、播磨から赤松則村(円心)が史上に現れた際には、浦上氏もその活躍の一翼を担い、鎌倉幕府の倒幕にも参加している。ちなみに浦上氏の名が書物にあらわれるのは、『大徳寺文書』にみられる為景なる人物が最初である。大徳寺の開山は大燈国師で知られる宗峰妙超で、浦上掃部入道覚性(一国ともいう)の子と伝えられている。宗峰は同郷の赤松則村の帰依を受け、正和4年(1315年)、洛北紫野に小堂を建立した。これが大徳寺の起源となり、正中2年(1325年)、花園天皇は大徳寺を祈願所とする院宣を発している。後に後醍醐天皇から播磨国浦上庄を寄進された宗峰は、浦上庄の半分を一族に分配することを申し出て許され、為景が天皇からその旨の綸旨を賜ったとのことである。 南北朝時代には、赤松氏は後醍醐天皇を中心とした建武の新政権を見限り、早くから足利尊氏に従った。尊氏が幕府を開くと、則村は播磨守護に、長子範資は摂津守護となった。おそらくこの頃に、守護赤松氏とその被官浦上氏と言う形での主従関係が成立したのではないかと思われる。 貞治元年(1362年)、山名時氏が備前に侵攻した際には、備前守護松田信重が浦上行景と共に防戦したことが『太平記』に記されている。やがて則祐が備前守護に補任されると、行景は守護代に任じられた。このことが、播磨を本領としていた浦上氏が隣国の備前へ勢力を伸ばす足掛りともなり、以後浦上氏は赤松氏の有力被官として活躍することになる。行景の後は、助景が守護代を継ぎ、赤松氏の被官としてその支配に尽力していたようである。赤松義則が幕府の侍所頭人に就任すると、助景は所司代に取り立てられている。しかし応永15年(1408年)、助景は伊勢国山田において誅殺されている。(この年には、第3代将軍足利義満が死去しており、政変に巻き込まれた可能性があると思われる。)その後の所司代には浦上性貞が就いている。 赤松氏は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱を起こし没落するが、この時には浦上宗安、則永らがともに幕府方となった山名氏の軍勢と戦っている。その後小寺豊職をはじめとする赤松氏の遺臣たちは、満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて主家再興を企画し、ついに長禄元年(1457年)、政則は家督相続を許された。応仁の乱では浦上則宗が赤松政則とともに東軍の細川勝元に属し、赤松軍を率いる主将として活躍した。応仁の乱後、赤松氏が播磨・美作・備前の三国の守護となると、則宗は備前守護代となっている。文明3年(1471年)政則が侍所の所司に任ぜられると、則宗が所司代となり実務を司った。文明13年(1481年)、山城守護に補任された政則は則宗を守護代とするなど、ここに浦上氏の権勢は大きく伸びることになる。 しかし乱後の影響が赤松氏の領国にも及ぶこととなり、文明15年(1483年)11月、備前御津郡金川城主の松田元成が、山名氏と結んで備前福岡を攻めた。赤松政則は但馬の山名氏を攻撃する戦術をとったが、但馬守護山名政豊に大敗し播磨は乱戦模様となった。この結果政則の権威は失墜し、政則は和泉へ逃れている。浦上則宗は小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実らの諸将と図って、五人の連署で赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がすよう画策も行っている。しかし足利義政の仲介により、政則と浦上氏らは和解し、文明17年3月から山名氏との播磨を巡る攻防に入った。坂本城を拠点とする西播磨の山名氏と、長享2年(1488年)7月に勝利するまで五年間に渡り対峙した。やがて播磨・美作・備前を回復した政則は、第10代将軍足利義材の軍奉行となるなど活躍し、明応2年(1496年)従三位に叙せられている。 赤松政則の死後、その養子である赤松義村は、浦上氏などに支持される形で、播磨・備前・美作の守護に就いたが、義村は自立の機会を伺っていた。浦上則宗の子(養子・孫ともいう)守護代浦上村宗は、永正15年(1518年)義村と対立し居城の三石城に退去した。しかし義村は守護の権威をもって村宗の討伐を企図し城を囲んだ。村宗は主家からの攻撃に狼狽したが、重臣の宇喜多能家らの支えにより攻城戦を乗り切った。しかし翌年の永正16年(1519年)には義村は再度兵を起こし、浦上氏に対抗する有力家臣である小寺城主小寺則職を主将として美作の浦上方の諸城を攻撃させた。赤松勢は浦上勢を圧倒し義村の目的は達成されるかに思えたが、やがて則職の軍は打ち破られた。逆に村宗は播磨に攻め入り義村を捕らえ、窮した義村を隠居させた。その後義村を幽閉し殺害した(1521年)。これにより名目的にも実質的にも、播磨・備前・美作の支配権を得て戦国大名への道を歩み始めた。 だが村宗が享禄4年(1531年)6月、天王寺の戦い(大物崩れ)で討死する。嫡子である浦上政宗は未だ幼少の身であったが浦上国秀など一族の有力な家臣の補佐もあり、無事に元服を果たす。その後、尼子詮久(後の晴久)によって一時期所領を失うも機を見て復帰し播磨、備前の2国を回復。ここに至る戦いの中で発言力を強めていった政宗は赤松氏筆頭家老にまで登り詰める。 しかし天文20年(1551年)、再び兵を率いて備前侵攻に際して政宗と弟の浦上宗景は真っ向から対立。政宗は播磨国室津に、宗景は備前国天神山に根拠を置いて、以後10年にわたり対立し、浦上氏は大きく分裂することになった。政宗は播磨守護代として実効支配を行い赤松氏を傀儡としていたが、永禄7年(1564年)に赤松政秀に襲撃され滅んだ。一方弟の宗景は、備前・美作一帯に一大勢力を築いて、また織田信長と誼を通じるなどして、再び家勢を盛り返した。宗景は、信長には領国の安堵を受けたが、台頭してきた重臣の宇喜多直家と不和となり、毛利氏と結んだ直家は浦上久松丸を擁立して天正3年(1575年)に宗景を打ち破り播磨国に追放した。ここに戦国大名としての浦上氏は実質的には滅亡した。久松丸はまもなく直家に毒殺され、また宗景は黒田長政を頼り筑前国で没したとされる。 主な浦上一族 浦上則宗 浦上則永 則宗兄 浦上宗助 則永長男 浦上村宗 宗助長男 浦上宗景 村宗次男 浦上成宗 浦上政宗 村宗長男 浦上清宗 浦上誠宗 浦上久松丸 浦上国秀 則国一族? 主要家臣 島村盛実 中山信正 宇喜多能家 宇喜多興家 宇喜多直家 系図 (斜体の人物は養子) 為景 ┃ 行景 ┃ 助景 ? (関連不詳) 性貞 ┃ 掃部 (不詳) ┣━━━━━━┓ ┣━━┳━━━┓ 則永 則宗 基景 豊前守 基久 ┣━━━┓ ┣━━┳━━┓ ┃ ┃ 宗助 則久 則景 則国 祐宗 基政 宗茂 ┣━━━┓ 村宗 宗久 ┏┻━━━━┓ 政宗 宗景 ┏━━━━━┫ ┣━━━┓ 清宗 誠宗 宗辰 成宗 ┃ ┃ 直宗 宗利 書物 「備前 浦上氏の研究」(1986年)新人物往来社 浦上元/著 備前に残る浦上成宗の子孫による研究書。したがって、宇喜多氏に関する記述は冷たく手厳しいものがある。 外部リンク 浦上宏の書斎 うらかみし うらかみし * うらかみし ---------------------------------------------- 出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01) Text is available under GNU Free Documentation License. 戦国武将一覧?■山名祐豊■浦上政宗 ■浦上宗景 ■宇喜多秀家 ■宇喜多忠家 ■松田元輝 ■南条宗勝 ■尼子経久 ■尼子晴久 ■尼子義久 ■尼子勝久 ■穂井田元清 ■三村家親 ■三村元親 ■大内義長 ■陶晴賢 ■河野通直 ■来島通康 ■長宗我部盛親 ■吉良親貞 ■香宗我部親泰 ■本山茂宗 ■安芸国虎 ■一条兼定 ■立花道雪 ■立花宗茂 ■高橋紹運 ■秋月文種 ■城井長房 ■少弐冬尚 ■龍造寺隆信 ■蒲池鑑盛 ■鍋島直茂 ■松浦隆信 ■有馬晴純 ■大村純忠 ■阿蘇惟将 ■甲斐親直 ■相良義陽 ■相良頼房 ■深水長智 ■隈部親永 ■伊東義祐 ■肝付兼続 ■島津義弘 ■島津歳久 ■島津忠恒 ■島津家久 ■上井覚兼 ■新納忠元 ■土岐頼元 ■土岐頼芸 |
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